2023年10月12日 | 2023年10月13日更新
横浜市中区の株式会社U三(ユウサン)は、身体障害特化型人材紹介サービスを行う会社で、今年3月に設立された。代表取締役社長の増田雄基さん(38)は17歳のときに事故に遭い、左足を切断。自身も義足を付けて暮らす身体障害者だ。負けず嫌いな性格から米国へ留学し、帰国後は大企業の子会社やベンチャー企業で健常者以上の年収を得ていたが、障害者雇用の収入の低さを何とかしたいと考え、起業に踏み切った。「キャリアの選択肢を増やせるよう、サポートしたい」と話す。
U三は現在、数人の相談者をサポートしている。対象は身体障害者に特化しているが、障害者雇用だけでなく、一般採用での就職も可能にするために、就労・就職や転職のコンサルティングを行っている。
増田さん自身は過去に4社の企業で働いた経験があり、35歳のころの年収は600万円以上あった。企業の人事・労務担当として、障害者雇用に携わっていたこともある。
障害者で健常者以上に働きぶりを評価されることは、並大抵ではない。増田さんは体調を崩すと、事故当時の痛みに襲われる。歩行には普段から人一倍気を付けているが、行ったことのない場所に向かう際は、階段だけでなく小さな段差にも不安になる。転職するたびに、移動しやすいよう職場の近くへ引っ越ししなければならないという大変さもあった。
ずっと気になっていたのが、障害者の年収だった。たとえ能力が高くても、体の一部に障害があれば障害者雇用で採用され、簡単な作業や雑用だけさせられて給料を上げてもらえない人は多いという。左足を失ったばかりのころは、自分も一般の就職は難しいかもしれないと考えていたが、情報がネットで得られる現代では、誰もが選択肢を増やすチャンスがある。
「一歩間違えていたら、私は危うい道を進んでいたかもしれない。でも、障害があってもまっとうに生きていきたいと願っていて、今こうして過ごせている。奇跡だと思います」と語る。
幼少期から山あり谷あり
増田さんは1985(昭和60)年、青森県むつ市で生まれた。1歳前後のときに原因不明の難病として知られる川崎病を発症。幼少期は、くみ取り式のトイレがあるプレハブ小屋のような家で暮らしていた。
6歳で両親が離婚し、祖父母に引き取られた。両親はそれぞれ再婚して義兄弟ができ、気苦労が絶えなかった。
事故は高校2年のときに起きた。バイクで走行中、信号無視の車と衝突。車とバイクの間に左足が挟まれ、感覚を失った。自分で救急車を呼び、あまりの激痛に「麻酔で眠らせてほしい」と看護師に懇願した。大腿骨(だいたいこつ)を損傷しており、左足切断を余儀なくされた。
高校を中退してリハビリに励んだが、オンラインゲームにのめり込んでひきこもりになった。義足ができ上がっても、装着して人前に出るのが恥ずかしかった。
「外に出たいと思いましたが、健康だったときの自分を知っている人たちには見られたくなかった。それで米国へ3カ月ほど行きました。語学留学といえば聞こえはいいけど、本当は逃げたかったんです」
事故の相手から支払われた示談金の一部を使って、自分のことを誰も知らず、言葉の通じない環境に身を置いた。
帰国後は全国を転々としながらアルバイト生活を続け、24歳で米国から古着を輸入する店を構えた。
だが、母親が示談金を使い込んだことが判明。多額の借金が残った。返済するために27歳で初めてサラリーマンになり、ひたすら働いた。転職を繰り返しては、徐々に年収を上げていった。
借金は完済。30歳で結婚し、子どもも生まれた。安定した生活を送れるようになって、今度は障害を持った人たちに寄り添い、一人一人の能力と労力に見合った賃金が出る職場探しを、一緒に行いたいと思うようになった。
17歳の自分がしてほしかったことをする
日本では、民間企業の法定雇用率は2.3%(2023年度)で、従業員を43.5人以上雇用している場合、障害者を1人以上雇う義務がある。だが、従業員の人数が基準に達していない中小企業やスタートアップ企業も、理解して受け入れるようになれば、障害者の仕事の幅は広がっていくはずだと増田さんは考えている。
ゆくゆくは、こうした企業への就職をあっせんしたいと願っている。「いずれは企業が障害のある従業員たちのコミュニティーを作って、成功事例を若い世代に伝えていってもらえればうれしい」。そうした企業が次々と現れれば、障害者雇用に対する社会の見方も変わるはずだと信じている。
合わせて企業側にとっても後悔のない人材を採用できるよう、バックアップを万全にしたいという。たとえば求職者が採用前の段階で、実際に働く職場を見学し、上司や同僚の働き方や環境を知っておけば、雇用のミスマッチは防げるはずだ。
事故に遭ったとき、自分には将来が見えなかった。当時は知りたかったけれども、誰にも教えてもらえなかった障害者の仕事や年収について、今なら自分自身がアドバイスできる。
「17歳のころの自分がしてほしかったことをしたい」。転んでもただでは起きない反骨精神が、増田さんを奮い立たせている。