2024年3月30日 | 2024年8月7日更新
神奈川県厚木市在住の雨野千晴さん(43)は6年前、不注意優勢型の注意欠陥多動性障害(ADHD)と診断された。子どもの頃は物おじしない明るい優等生だったが、忘れ物や遅刻が多く、片付けができなかった。小学校の教諭になってから、自分の苦手な部分が目立つようになり、職場の人間関係に悩んだ。妊娠・出産、自閉症を持つ長男の子育てと、ブログの発信を通じて徐々に本来の自分を取り戻していったという。
ADHD(不注意優勢型)は女性に多いとされる発達障害。忘れ物やなくし物が多く、時間配分が苦手。片付けが苦手で、集中力が散漫してしまう―という特性だ。
雨野さんは札幌市出身。幼い頃に両親が離婚し、母親と祖父母と暮らしていた。祖母に勧められ、北海道教育大学札幌校で教員免許を取得した。
すぐに教諭になったわけではなく、卒業後は小樽の吹きガラス工房で働いた。結婚を機に神奈川県厚木市に引っ越し、初めて小学校教諭として働いた。
「担任を持たせてもらって、授業を教えるのは楽しいし、子どもたちとの関係も良好。自分は学校の先生が向いていると思っていました」
一方で、授業に必要な教材が見つからない、事務作業ができない、大事な児童の書類を別の児童に渡してしまう…。そうしたミスを連発した。
次第に、同僚の教員から事あるごとに管理職に報告されるようになってしまった。
「それまでは周りの先生たちのおかげで、うまく回っていたことに気が付きました。校長室に呼ばれてしまうことが増えて、できない自分を認められず、ますますミスや失敗を隠すようになりました」
その頃から、職員室に行くと声が出にくくなるといった精神的なストレスを抱えるようになった。
「教室でうまく言葉が出ない子や、発表が苦手な子の気持ちが分かったような気がしました」
精神面に不調を抱え、一時は「死にたい」と思うほど追い詰められたものの、長男を授かり産休へ。出産したわが子は愛しく、「人は生まれてきただけで愛される存在」と体感。雨野さんの心に癒やしを与えてくれた。
雨野さんの長男は2歳で自閉症スペクトラムと診断された。こだわりの強さや言葉の発達が遅いなど、思い当たる節はあった。
親子で療育教室に通い、特性のある同世代の子どもたちと触れ合った。母親同士の交流も通じ、本来の明るさを徐々に取り戻していった。
親子遠足でお弁当を食べる機会があった。重度の障害を持つ女の子が隣になった。彼女はみんなと同じように遊ぶことはできないが、頬をなでる風に当たり、気持ちのよさそうな表情を浮かべた。見ていてはっとするものがあった。
「障害があるとかないとかは関係なく、幸せは自分が決められると思いました。今までの自分とは考え方が大きく変わりました」
その後、次男を出産。育児に没頭したが、心身の疲れから病院で精神科を受診した。自身のADHD傾向についても相談するようになった。
雨野さんの人生の分岐点となったのは、産休のときに始めたブログだ。日々の生活で起きた出来事でおもしろいと感じたことをつづるうちにアクセス数が伸び、1日に約4万5千人が閲覧してくれることもあった。
ありのままの自分が受け入れられ、誰かのためになっていることを実感することで、雨野さんも元気になっていった。
自分の特性を知った雨野さんは、復職にあたってこれまでとは違う働き方が必要だと感じた。今の自分を生かし、どう工夫して、周りに助けを求めるか考えた。
「職員室や教室で、私にADHD傾向があることを話しました。皆さん、真剣に話を聞いてくださり、特性を理解してもらえたことで働きやすくなりました」
首からはファスナー付きのビニールケースをぶら下げ、「大事な物ケース」と命名。学校内でなくしても、他の教諭や子どもたちが積極的に届けてくれるようになった。
仕事でミスをした同僚からは、相談を持ちかけられることもあった。
「私がADHD傾向と開示したことで、自分の失敗を打ち明けやすくなった先生もいたのかなと思います」と雨野さんは振り返る。
2017(平成29)年に学校を退職。現在はNPO法人代表理事、ADHD専門ライフコーチ、文章・会員制交流サイト(SNS)の発信講座の講師、カウンセラー、イラストレーター、福祉事業所のスタッフなど、さまざまな仕事を〝複業〟して、興味・関心の幅を広げている。
仕事以外にも、「うっかり女子会」として、不注意傾向のある女性が交流するコミュニティーを作り、活動している。
雨野千晴はペンネーム。長男を育てながら感じた「雨の日もあれば、晴れの日もある」との思いから名付けた。
全ての人に雨のち晴れの日がある。雨野さんは、今日もうっかりミスをしながら、笑顔で息子たちと晴れの日を作り続けている。