2024年11月28日
静岡県熱海市の介護タクシー「伊豆おはな」を経営する河瀬豊さん(54)と妻の愛美さん(48)は、東京から移住して2013(平成25)年に起業した。急な坂や階段が多い熱海のまちで、主に高齢者の自宅と医療機関を送迎する。他に障害や病気で外出が難しい人に対し、移動支援やバリアフリーに関する情報提供を行い、今では地域にとってなくてはならない存在になっている。
熱海は静岡県東部に位置する山と海に囲まれた観光地。温泉と美しい風景、風情ある街並みが人気で、国内外から大勢の観光客が訪れる。
一方、火山活動により海岸から山腹にかけて階段上に地形が発達したことで、平坦地が少なく、中心部を離れれば坂道が目立つ。
2021年7月には28人が犠牲となる大規模な土石流災害が発生。河瀬さん夫妻は、移動が困難な住民たちを命がけで助けた。
東京から週末移住したのは「海がある場所で暮らす」という夢をかなえたかったからだ。商店街やカフェで住民たちと交流する中で、だんだんと本格的に移住したいという思いが湧いてきた。
同時に、急な坂道や長い階段を見て、高齢者の暮らしぶりが気になった。
「この坂、お年寄りが転んだら危ないぞ」「あのおじいさん、随分と階段のある家に暮らして大変そうだな」
実際に、足が不自由で階段の上り下りができず、自分から外に出られない孤立した高齢者が多くいることを知った。
深刻な状況を何とかしたいと、豊さんは考えた。当時、豊さんはサラリーマンで介護職の経験はなかったが、愛美さんは看護師。ならば、外出の難しい人向けの介護タクシーならできると考え、起業を決意した。
熱海市の高齢化率は2023年3月末現在で48.6%と全国平均(約29%)に比べてかなり高い。そうした中、「伊豆おはな」の介護タクシーは年間3000件ほどの利用者を送迎している。
介護タクシーの一番の役目は自宅と病院を往復し、安全に送り届けること。リクライニング車いすやストレッチャー、電動車いすなどに乗る高齢者らが活用する。医師の指示の下、搬送中に酸素吸入や痰(たん)の吸引などの医療行為も看護師なら行える。
愛美さんは看護師の視点で、患者の自宅での様子を病院側に伝える。日頃から小まめに情報交換を行っており、医療職やケアマネジャーから感謝されることも多いという。
愛美さんは「私の存在は病院やケアマネジャーへの架け橋。看護の経験全てがつながっていると感じています。医療的ケアが必要な方も多くいらっしゃるので、車の中ではなるべく不安なく、安心して過ごしてもらえるよう心掛けています」と話す。
地元出身ではない河瀬さん夫妻が、なぜそこまで熱海の医療・介護に尽くそうとするのか。
それは、豊さんが子どものころに経験した事故で、医療従事者に助けられた感謝の思いがあったからだ。
豊さんは1970(昭和45)年生まれ。東京都杉並区で暮らし、4人姉弟のにぎやかな家庭で育った。10歳のとき、家事の手伝いで風呂を沸かしていたところ、誤って沸かしすぎた湯の中へ転落。救急車で搬送されたが、全身の70%に大やけどを負った。
「全身に水をかけられ、あごが外れるほどガタガタ震えました。意識がなくなり、気付けば川の向こうで誰かが手を振っているのが見えて…。泳いで渡ろうとしましたが、母の声で振り向き、次の瞬間病院のベッドの上にいました」
手術を4回繰り返し、管でつながれた体は身動きが取れず、食事は経管栄養。ただひたすら天井を見つめる苦しい入院生活を、1年ほど送った。
だが、医師や看護師に支えられて、なんとか生き永らえた。その時の感謝を胸に刻み、大人になってからも忘れることはなかったという。
結婚後、都内で愛美さんと生活を続けていたが、2011(平成23)年に熱海の中古マンションを購入。平日は都内で仕事、土日は熱海という二拠点生活を始めた。
「自分があの時助かったのは、きっと意味があるはずだ」という感謝の思いを今こそ形にしようと、恩返しの気持ちで起業したという。
「外の様子が分からない、季節も感じられないといったつらさは、私も経験しました。だからこそ、移動をお手伝いできる介護タクシーで役に立ちたいと思ったのです」
一方の愛美さんは、20歳で正看護師になり、長年病院で勤務していた。まさか自分たちが介護タクシーを運営するとは夢にも思わなかったが、夫の熱い思いを受け入れた。
夫婦それぞれがタクシーを運転できる普通2種免許を取得。豊さんは介護職員初任者研修(旧ホームヘルパー2級)、実務者研修を経て介護福祉士になった。「伊豆おはな」は2016年、熱海市初の患者等搬送事業者の認定を受けた。
最近は「呼び寄せ介護」に伴う依頼が増えている。高齢になった親を、子どもが自分の住む家や家の近くの施設に呼び寄せて面倒を見ることを呼び寄せ介護という。東京・千葉・埼玉まで、ストレッチャーに乗せたまま走るケースは少なくない。台風による悪天候の中、愛知まで送り届けたこともあるという。
「ご家族からはとても感謝されています。サラリーマン時代に人から直接、涙を流しながらお礼を言われることもなかったですし、やり切ったという感動もあります」と豊さんは語った。
介護事業所はどこも人手不足だが、「伊豆おはな」も例外ではない。求人募集をしてもなかなか採用に結びつかず、需要はあっても介護タクシーを続けられるかどうかが心配だという。
それでも、豊さんと愛美さんは「この仕事をつらいと思ったことは一度もありません」と口をそろえ、自分たちにしかできない仕事をすることに、やりがいと誇りを持っている。
さわやかなアロハシャツのユニフォームを着て、熱海を走り続ける夫婦二人三脚の介護タクシー。今日も住民たちに全力で寄り添う。