2023年6月15日 | 2023年6月16日更新
静岡県で活動するイラストレーター大塚紗瑛さん(27)は、2019年11月「老人ホームに恋してる。介護職1年生のめくるめく日常」(祥伝社)を出版した。美大卒業後、地元の特別養護老人ホームに就職。働きながら3年で介護福祉士を取得した。当時の様子を描いたイラストや漫画をインスタグラムで発信したのがきっかけで、出版が決まったという。介護の魅力や現在の活動について聞いた。
京都造形大学で子どもの教育や芸術について深く学んだ大塚さん。幼稚園教諭の免許も取得したが、就職活動をするにあたって思い出したのは、母親が祖母を介護する姿だった。
祖母は脳梗塞で倒れ、右半身麻痺を患った。母親は仕事を辞めて専業主婦になり、姑の介護を毎日行っている。その姿を大塚さんも間近で見てきた。
「自分にも介護の知識があれば、母親を手助けできるかもしれない」。そう考えるようになり、デザイン会社や出版社への就職を希望しながら、福祉業界の採用説明会にも足を運んだ。
ある日、介護施設へ就職した同じ大学の先輩が、学生たちを前に施設の説明を行っていた。その先輩は「介護はすごくクリエイティブ」と語り、介護士としての仕事をこなしながら、車椅子の利用者が食事しやすい机をデザインして作るなど、一人一人に合った物作りをしていると紹介した。
そう聞いて、大塚さんは介護職に興味を持ち始めた。インターンシップでは特別養護老人ホームに行き、レクリエーションや似顔絵を描いて喜ばれると、楽しさを感じた。「先輩の言う『介護がクリエイティブ』は、本当かも」。期待に胸を膨らませて、内定をもらった。
入職したのは、特別養護老人ホーム。右も左も分からず、無資格のまま、介護現場に飛び込んだ。
実際に勤め始めると、日中の仕事だけでなく夜勤もあった。覚えることはたくさんあったが、最初から排泄の介助も抵抗がなくすんなりできた。
利用者とのやり取りも面白く、大いに笑って心が和んだ。
もちろん楽しいことだけではない、20代とはいえ、体力勝負の仕事であり、体を痛めやすい。職員の人手不足で、気が付けば一人で何十人もの利用者を見守らなくてはならないこともあった。自信がなくて泣きたくなることもあったが、気持ちを奮い立たせた。
「大塚さん」。そうした忙しいときでも、ふとした時に利用者から名前で呼んでもらえると、とてもうれしかった。一般であれば人に名前を呼んでもらうのは当たり前のことだが、特養に入居する高齢者は、要介護3以上の人たちで、大半は認知症を患う。自分の名前すら言えなくなる人も多い中、介護士の名前を発するのは人によってはかなり難しい。
利用者たちは、大塚さんが制服の胸元に着けた名札を見て、たびたび名前で呼んでくれた。声を掛けようとしてくれたことに、喜びを感じずにはいられなかった。
他にも、自分の声掛けで利用者がレクリエーションに参加するきっかけを作れたことや、食事をするようになるなど何かしらの良い変化や行動が見られると、やりがいを感じられた。気付いたことはメモをしていき、それがやがて漫画のアイデアになった。
漫画の登場人物で、SNSで最も人気なのは「ホリエさん」という教育担当係だ。新人時代の大塚さんに常に優しく接してくれて、指導が分かりやすく、仕事ができる存在だったという。
イラストや漫画からも、その様子はよく分かる。ホリエさんはただ優しいだけではなく、決してなれ合いの関係にならない。後輩と適度な距離感を保ちながら、教えるべきことをしっかり伝え、余計なことは言わない。
時にユーモアあふれる発言をし、周りを和ませてくれる人柄に、現実の大塚さんは何度もほっとさせられたという。読者にとっても「これが理想の上司の在り方だ」と共感を持つ人は多かっただろう。
「ホリエさんは自分の休憩時間も削って、私たち新人に車椅子の移乗を教えてくれる良い先輩でした。てきぱき仕事をこなされて、お手本のような方でした」と、大塚さんが尊敬する表情を浮かべた。
漫画は全て、今では珍しく手書きで描かれている。どこか昭和の雰囲気を漂わせるのは、登場人物が高齢者というだけでなく、大塚さんのタッチと素朴な人柄がにじみ出ているからだろう。
さまざまな職員の働く様子や、個性的な利用者の発する言葉が、漫画ではていねいに表現されている。利用者からの何げない言葉は時に涙を誘うページもあった。
漫画を制作するにあたっては、施設内の個人的なことが描かれてあるため、事前に施設長が絵や言葉を確認。中にはボツになった作品もあったが、漫画での大塚さんの言葉遣いや表現を、柔らかく直すよう促してくれたという。
アットホームな特養で過ごした3年間は、大塚さんに大きな影響を与え、キャリアアップにつながっていった。
大塚さんは特養を辞め、その後老人保健施設に転職。現在はイラストレーターの仕事に本腰を入れるため、フリーランスになった。介護士としては週に1度、夜勤専門の職員として働いている。
介護士には、大塚さんのようにクリエイティブな人が多い。音楽活動やものづくりと二足のわらじを履く介護士は全国に大勢おり、大塚さんも励みにしている。
「これからもっと介護現場が盛り上がっていくぞ!という気持ちで過ごしています。いつかは私の介護漫画も商業誌に載って、ゆくゆくは30歳までに月9のドラマに決まりたいですね」と、壮大な夢を語っていた。
果たして介護士が主演のドラマとは、どんなものなのだろうか。とても地味な業界だが、実際に起こる現場の過酷さや、生きる上で大切なことを教えてくれる利用者の名言など、実体験を元にした温かいホームドラマになるのではないかと想像する。
大塚さんが、こんな話をした。「利用者さんに奥さまとどこで知り合ったのか聞くと『お見合いじゃ』と答えられる人が多いですが、私たちの時代にはきっと『マッチングアプリじゃよ』なんて言うんでしょうね」。
これもいずれ、漫画の1ページに加えられるに違いない。